昭和五十六年十月十日 朝の御理解                      御理解 第六節 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は                  世界中であるぞ。」                     天地の親神様の御恩徳というものは、天地にみなぎり天地にその働きを現わしておられるのですから、それをどう実感するかと、どう有り難くわからして頂くかという事になります。おかげは受け徳、受け勝ちとも仰せられます。
 そういう、へんまんしている神様の働きというか、おかげというか、又は、お徳というものを、まあいろいろな形でおかげで頂く人、お徳で受けていく人、まあいろいろございます。それはどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰せられる、その信心にも又、さまざまな頂き方、受け方がそれぞれあると思うんですよね。こちらの頂き方というか、その受けはまり方というか、そこの所へまあおかげの頂ける頂けない、充分に受ける、充分ではないというような、まあ区別もついてくるわけですが。
 昨日私は、次々とお礼のお届けを聞かせて頂く中に、久富繁雄さん所の長男が、お礼に出てまいりまして、今度、神様にお願いして、もう沢山なほうれん草が作ってございました。それを毎日毎日出荷致しますのに、三人のお手伝いの方を雇うて、そして家族中で、毎日毎日どの位出されたですか、十日位ですか、繁雄さん。何日位ほうれん草出されましたかね、二十日間に渡って出されたんです。毎日。で、昨日お礼に出てまいりましてから、その国男さんが申します事は、親先生いつもの事ながら、私の方のおかげは、もう父の信心頂いとるけんといわずにはおれません。もうこれは三人の信心のないお手伝いに来て下さる方達が、もう最後には、もう神様を拝んでごつばっかりは、ここのじっちゃまが、しっかり信心しなさるけんで、おかげという事じゃ。こういう事でしょうのというて、ほうれん草が立派に出けておるというだけでなくて、そのスムーズな出荷のぐあいというかね、まあ、売れ行きのぐあいというか、値段のぐあいというか、それは聞けば聞くほど、もう信心の無い者でも、神様の働きをまのあたりに見せて頂き、聞かせて頂くようなおかげでしたというお届けがございました。
 これは、二、三日前、こりあ小森野から時々参ってくる方で、そこも、やっぱ、ほうれん草を沢山作ってあったそうです。ところがどうしたま違いか、もうみんなが葉っぱが赤くなった。だからどうぞおかげ頂くようにというお願いがありましたがです。ね、蒔きさえすりあ出けるというだけじゃない。勿論天地の御恩恵を頂かなきゃなりませんけれども。そこにね、もうその出きばえも見事だったそうですが、その二十日間も、毎日毎日三人の手伝いさんを雇うて、その出された。まあ順調さというか、ぐあいというか、兎に角信心のない者でも、ここはじっちゃまの信心によるほかないというて、まのあたりに神様の働きを。これは国男さんの言葉ですよ。まのあたりに神様の働きを見せて頂くようなおかげでしたというお届けでした。ね、だから、小森野の例をとってはおかしいですけれども、まあ、結局、なら、信心の相違、おかげは同じ時期に同じほうれん草を作ってかていっ方の方は赤くなった。かていっ方のはもう見事な見事なほうれん草が出来た。しかも、それが二十日間続けて、この出荷し続けられたと。
 信心のない者でも、やっぱりここはじっちゃまがしっかり金光様の信心しなさるけんという事になったという。そのお届けを聞かせて頂いてから思うんですよね。それこそ神の中を分けて通りおるようなものじゃ。ね、その神の中を分けて通りおるよるようなものという実感なんですね。
 これは、大阪講演会の時に、泉尾の三宅先生が、もうその繁雄さんの話を聞いて、ほどほどしに感心されて、「大坪先生、私の方にはこういう信者がおりません。」と。あれだけ大変なお教会の先生がそうおっしゃったというのはです、その時分にはキャベツが作ってあった、沢山作ってあった。それで、久富さん、ああたが信心なさってまあ、一般で篤信といわれるよう信心をなさっておられるそうだが、信心をなさる。まあ、どういう時が一番有り難いですかという質問に対してですね、今、キャベツを沢山作っておりますが、そのキャベツ畑の真中で御祈念をする時、沢山なキヤベツがこうものをいいかけて来るような思いがしますという事を。もう感心しました。ね、神の中を分けて通るようなものじゃという中にはね、そこに、神様<と>野菜と話し合いが出来るような、そのおかげの実感といういうものが。私の一番有り難いのは、お野菜の真中で、いうならば、まあ、「お野菜さん有り難う」とか「御苦労さん」とか、いろいろまあでしょうけれどもね。まあ、そ時が一番有り難いといわれるという事は私は神の中を、神の中の実感をね、感じておられるのだと思うんですよ。 
 同時に最近いわれます御用なんです。ね、なら、繁雄さんの、例えば御用というでしょうかね。私の事を御用して下さるようになって、光橋先生が亡くなりましてからですから二十五年でしょうか。日々の、もうそれこそいうならば打ち込んだ御用です。朝参りをされる。そして昼頃までその御用はかかる。ね、そん為にさまざまな修行もいろいろあったでしょうけれども、いかにその御用そのものがおかげになるか、又、そこに天地にへんまんしておられる神様を、自分の心一つで頂き止める、その心の状態というものが、そういう中から育っておる。ね。いうならば、御用はせずにはおれんのじゃないけれども、なら、私に御用せずにはおれんというてなさった事でもなかろうけれども。久留米の光橋先生が亡くなります一ヵ月前から、どうぞ私の御用はあんたが受け持って下さいというて亡くなってからは、お夢の中までも、その働きが現わされたんですけれども、そういう事から、その御用一筋にこう貫いてこられたという、その御用に対する、私は御神徳お徳だと思う。
 私が今度もちょっとした驚きでしたけれども、福山の共励会が終わりました後で最近親先生は合楽の信心を分かる前に、先ず久富おっちゃまの信心を研究せよという。研究してある方があると聞きました。そういう事がどうして出けるのだろうかと、そういうおかげがどうして受けられるのだろうかじゃなくて、そういう事がどうして出来られるのじゃろうか、そういう信心がどうして出けるのであろうかと、こう言う。
 別に華々しいとか、目立つとかという事でもないのだけれども、そこに、御用一筋に貫ぬかれる事。そこから、いうなら、神の中を分けて通るような実感を、いよいよ頂かれていくようになって、昨日国男さんがお届けされますようにね、信心のない者でも神様のおかげ、働きといわずにはおれん程しのおかげを頂いておるという事。ね、私はその福山の御信者の話を聞かせて頂いて、ははあ、成程だなあと。合楽の信心を分かる為には、誰々さんの信心を先ず研究せよといわれる位な、いうならば、ひとかどの信心を頂きたいと思うですね。
 合楽にあるなら、私が百の信心を持っとるとするなら、その百の信心の、これだけは親先生の信心の、これだけは、私が頂いたといったようなね、おかげを。それを合わせ、私の方でいうならば、四人の息子の事を、神様は、士農工商というて下さるが、これは若先生、これは光昭、これは幹三郎、栄四郎というようにです、士農工商の実というものが、それぞれに身についてきて、いうならば合楽の信心の研究するならば、先ず四人の息子さん達の信心を研究せんなんといわれる位なね、子供達に育ってくれたらすばらしいかろうと、こう思うです。
 まあ今日の御理解は、神の中を分けて通るようなものじゃという事だけれども、だから誰でも同じなんだと。それを、なら、受ける頂きかた、それを頂く為にはどういう信心からその実感が生まれてくるかという事なんです。
 これは或る方というても、まあ善道寺の原さんの孫にあたる、北野の上野の二番目の娘で、今度高校卒業して就職です。誰でもいい所に就職したい。ところがいい所ない。所ほどその条件が難しい。神様はどこどこどことこうお伺いさせて頂かれるとに、ここがよかばいというて丸をつけて頂いたのが、もう一番難しゅうして、学校でも最高に出けた上にも出ける人だけしか選ばないという所だったらしいです。ね、けれども難しいと思ったけれども、兎に角親先生がそういいなさるからというて、まあおかげを頂いたんですけれども、おかげで通ったんです。もう今、昨日のおばあちゃんの話を聞きますと、兎に角学校でその話で持ちきってると。どうして嘉代子さんちいいますもん。嘉代子ちゃんがどうして出けたじゃろうかち。それがね、そこはあんまり難しいから、そこをね、そこを希望する者がなかったんだそうです。一人あった。そりゃ、てんきりに素晴らしい頭のいい人じゃった。ところがその人が出来ずに嘉代子さんが出来けたというのです。
 それでそれが問題になってどういうわけ、嘉代子ちゃんが出けたですかという事を、まあ、質問があったそうです。その時に、もう、その嘉代子さんが場合、出ける出けんは問題にしとらんもんだから、自分の思う存分の事を面接の時なんかでも話したらしいですね。出けんでんよかと思うて。まあ、そういう事も原因だったし、先生としても、私は不思議といわれたそうです。ね、そういう例えば、なら、これはおかげですけれども、そういう、神の中を分けて通る、神様のおかげというのは誰の上にでも同じに現れておるのだけれども、そこにね、いうならば、真に親先生がおっしゃったからというところに、そこに思いをこめたという事を。
 これにはね、もう一つわけがあるんです。これは本人か親かは知りませんけれども、そういうところを、まあ、いうなら、受験するわけでございますからね、これはもう、特別なお願いがございました。そしておかげを頂いたら特別なお礼がございました。
 皆さん、そこから先は皆が推量して頂かにゃ出けません。普通では出けない事がね、その前後に出けておりました。これなんかは、いうなら、神様のおかげは皆も同じなんだけども、そのおかげを一所に集めるような働きというのはね、いうならば、繁雄さんの例でいうならば、繁雄さんの場合は一生かけての御用に貫かれた。ところが上野さんの場合はね、まあ、例えば、そん時そん時だけではあるけれども、なら、まあ神様に喜んで頂くのでしょうね、やっぱ御用ですから。お役に立つのですから。
 そりゃ端的ではありますけれども、そこんところに今度のおかげの秘密はあったなあとも思います。こりゃ、皆さんも毎日お参りして、その事のお届けがありますけれども、ね、兎に角、お父さんは自転車屋してます。信心はありません。上野先生の弟という事、実弟です。昨日おばあちゃんが、先日行ってから本当、こんだ孝子(嘉代子)がおかげ頂いたの、父ちゃんちいうたげなら、父ちゃんがいう事が、今度ばっかりは、私はたまがっとるちいうたげな。信心のない者でも、うすい者でも、おかげといわずにはおれない程しのおかげを頂く為には、神様が下さっておる充分のおかげを受け止めるという取り立てを、みなさんが工夫しなければいけないという事。
 それは、いうならばね、しょう事なしであっても、いうなら、御用を本気で打ち込んで行っておる中にね、いうならお野菜と話し合いが出けるような心の状態も生まれてくる。一番いわゆる、どこの、いうなら何というでしょうかね、いつも今そうじゃないですけれども、昔は肥料をね、肥やしをかけます。今は金肥ばかりでね。科学によってでけた肥料がもうほとんどでしょう。肥やしをかけられる時でもね、御地内の中をみだりに汚すなよと。誰でもだから金光様の信心すりゃ大地を汚しません。けどもお百姓さんが肥やしをかけるのは、こりゃ当然の事、当たり前。こりゃ仕方ない事と割り切らずに、神様ちょっとよけといて下さいと、済みません済みませんというてかけとられるち言う。こりゃ十何年も前の久富さんの信心なんです。
 そこんにきにね、ちょこっと、やっぱ頂き方が違うように思うんですよ、ね。これは当然だ、人間だからあたり前だというところに、お詫が出けとる、謙虚な心の状態という事を、まあ、信心が続いたおかげが受けうられた。
 神様を日々実感される、まあ信心生活ともいう事になったわけでございましょうけれども。ね、今日私は天地にへんまんしてござるという事を、大体教えてあるんですよ。ね。
 神の中を分けておるような実感を持って日々を信心生活せろよと。なら、それを、その神様はそういう働きとおかげがそこにへんまんしておるのですから。それを頂き止めるのは私共の心なんだと。私共の信心なんだと。
 それを頂き止めるのには、いうならば、今いう端的にというか、又、生涯を通してという、まあ、上野さんと久富さんの二つの例をとりましたが、ね。本気で御用さして頂くという、その御用の内容を検討していくとね、信心のない者でも実感<がで>けるという事になります。                  どうぞ。